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なぜ学校で…。高知市立小プール死をめぐる疑問⑲「一生かけて償います」

高知市の松下整教育長が10月16日付で辞職した。2024(令和6)年7月5日、高知市立長浜小学校4年の水泳授業で男子児童が亡くなった責任を取った。事故5日後の7月10日に桑名龍吾市長へ辞表を出し、第三者委員会の立ち上げと高知市議会9月定例会が終わった9月30日に再び辞表を手渡していた。(依光隆明)

記者会見場に現れた松下整教育長(2024年10月16日)

来年度の予算、人事を後任に託す

松下氏によると、9月30日に辞表を手渡したときに桑名市長は即答しなかった。数日後に辞職が認められ、辞任日の10月16日になって公にされた。同日は記者会見も行われ、松下氏は沈痛な表情で「教育行政の責任者として責任を痛感した。辞職願を出すのが正しいと思った」と述べた。この時期に辞めた最大の理由は、「令和7年度の予算編成と人事異動を次の人にやっていただく」ため。「本日まで、市長が事故後の対応をさせてくれたことはありがたく感じている」とも述べた。

亡くなった男子児童の遺族には15日に「明日付で辞職させていただきます」と連絡したことを明かし、「(遺族の方々には)本当に申し訳ありませんでしたと伝えるしかありません」。長浜小のプールが故障したあと、なぜすぐに南海中のプールを使うと決めたのか。その判断が正しかったのか。さまざまな考えが交差したのだろう、「責任者としての道義的責任が最も大きい。立ち止まったり、振り返ったり、そういうことが組織として行えなかったことを今でも悔やむばかりです」と唇をかんだ。「『南海中を使う』と言われたとき、もっともっと安全に対する配慮を私個人ができなかったのか、悔やむばかり」「小学生を中学校のプールで泳がせるということに対してもっと配慮しなければいけなかった」とも。

第三者委員会(長浜小学校児童プール事故検証委員会)については「非常に綿密な調査を行ってもらっている」と評価し、「検証委員会の報告を受け取りたかったという思いが全くなかったわけではない」と心情を吐露。「しかし、この事故の重大性から見て職を辞するのが適当だと考えていた」と重ねた。松下氏の任期は12月までだったため、もともと再任が認められない限り検証委員会の報告を受け取る立場にはなかった。それを考えると7月の段階で辞表を受理し、新教育長に検証委員会の立ち上げや議会答弁を任すという選択肢もあったが、桑名龍吾市長は10月のバトンタッチを選んだ。衆議院選挙投開票直後に臨時議会を開き、新教育長を選任すると思われる。

市役所が非開示とした文書の理由。判で押したように同じような文字列が並んでいた

捜査はまだ続いている

会見で松下氏が言葉の端々に挙げたのは「捜査」という言葉だった。退職金について聞かれた際には、「私自身が捜査に協力しています。規則に基づいて、退職金については今はその準備をしないという説明を受けました」。浮き彫りになったのは、警察の捜査が継続しているという生々しい現実だ。捜査の行方次第では学校関係者や教育委員会、市当局者が刑事罰を受ける可能性がある。多くの場合、刑事罰を受けた公務員には懲戒処分が下される。懲戒処分を受けると退職金の額が変動する。だから市としては現段階では退職金は出さない、という意味だと思われる。

7月以降、News Kochiはたびたび高知市に情報公開請求を行ってきた。異常だったのは開示時期の遅さ。通常は遅くとも1カ月後に開示されるのに、2~3カ月かかるケースが少なくなかった。遅延の理由は「出していい書類かどうかを警察に聞かないといけないため」。高知市や高知市教育委員会に対し、警察が真摯な捜査に入っていることがピリピリと伝わってきた。開示された資料にも、非開示部分に「捜査」という文字が入るケースは少なくない。非開示理由の文字列はおおむね同じで、「当該文書は、現在捜査中の長浜小児童プール事故事案に関する情報であって、公開することにより、犯罪の捜査に支障が生ずる恐れがあると認められるため」となっている。

高知県警は業務上過失致死の立件を視野に入れていると思われる。焦点は書類送検するのか否か、そのときに誰の過失が問われるのか。書類送検されたあと、検察が起訴か不起訴かを決める。起訴されると刑事裁判へと進む。長ければ書類送検までに1年、起訴か不起訴が決まるまでにまた何か月もかかる。裁判になり、その判決が確定するまでには10年という月日がかかるケースもある。

質問に答える松下教育長(10月16日)

キャンプの水難で有罪に

学校における授業中の事故で業務上過失致死が問われたケースは多くない。特に学校プールでの溺死事故となると、例を探しても見つからないほど少ない。昭和の時代までさかのぼれば高校のプール事故で業務上過失致死が立件されたケースがあるが、詳しい資料が分からない。

学校内の事故ではないが、水死につながった事故としては2010(平成22)年に佐賀県で起きた体験キャンプの例がある。佐賀県のある市が事務局を務める協議会が主催し、実質的な仕切りは協議会傘下の民間団体が務めていた。2007年から始めた催しで、2年間は問題なくイベントが成功した(2009年は天候不順で中止)。ところが2010年は、さまざまな原因で監視すべき人間全員が場を離れた時間帯ができた。そのとき、参加者の小学3年生(8歳)が溺死した。この事故は、判決まで7年かかっている。

2017(平成29)年6月に佐賀地方裁判所が出した判決は、民間団体のトップであるAよりも実質的に催しを仕切っていたBの過失が重いと判断し、Aの罪を問わず、Bに70万円の罰金を科した。男子参加者だけを先行して川に連れて行くというBの計画変更が事故の要因になったという判断だった。同地裁は量刑理由にこう書いている。「この結果は、被告人Bの軽はずみというほかない計画の変更により生じたものであって、その過失が結果発生に与えた影響の程度は小さくない。被告人Bの刑事責任は決して軽いとはいえないものの、本件事案の性質・内容などに照らし、禁錮刑以上の刑を選択すべき事案であるとは認め難く、主文のとおりの罰金刑に処するのが相当である」

この事故ではもう一人、市職員が罪に問われている。

体験イベントのスタッフを務めた市職員は課長(協議会事務局長)と係長(協議会事務局員)、係員(協議会事務担当)、ほか2人だが、過失割合は役職に比例していない。罪に問われたのは最も深くこのイベントにかかわっていた事務担当の係員(E)だけで、罰金40万円だった。量刑理由にはこう書かれている。「この結果は、Bが行った軽はずみな計画の変更を被告人Eが容認したことにより生じたものであって、その過失が結果発生に与えた影響の程度は小さくない。被告人Eの刑事責任は決して軽いとはいえないものの、本件事案の性質・内容などに照らし、本件が禁錮刑以上の刑を選択すべき事案であるとは認め難く、被害児童の父との間では100万円を支払って示談が成立している上、被告人Eは前科前歴を有しておらず、これまで一地方公務員として真面目に職務に精励してきた人物であり、本件溺水事故を招いたこと自体については後悔していることなどの有利な事情を考慮し、主文のとおりの罰金に処するのが相当と判断した」

教育長会見に集まったテレビカメラの列

「監視者不在」を生んだのは誰か

判決文は、市職員Eの過失をこう書いている。「成人スタッフによる監視態勢を整えた上で上記川遊びプログラムを開始すべき業務上の注意義務があった。それにもかかわらず、被告人Eは、これを怠り、男子児童らに付き添って川遊び予定場所に移動する成人スタッフに対して上記指示をするなどして監視態勢を整えることをしないまま、Bによる予定の変更に従い、Bから男子児童ら17名だけを先に川遊び場所へ移動させるよう指示を受けた被告人D(市係長)らに対し、その指示に従うよう指示して他の成人スタッフの一部と男子児童ら17名だけを先に川遊び場所へ移動させて本件川遊びのプログラムを開始した」

判決が重視したのは2007年以降のイベントが問題なく実施されていたことだった。「(以前のイベントは、水深の深いエリアに)成人スタッフら数名がその付近に立って、監視及び救助態勢を採っており、いずれの川遊びにおいても児童らが溺水するなどの事故は生じていない」「このような事情に照らせば、被告人らが平成19年度及び同20年度と同様の監視・救助態勢を採る限り、被害児童が溺水するといった結果が生じる蓋然性は相当程度低くなっていたものと考えられる」と前置き。事故の原因を「成人スタッフが児童らを引率して集団行動すべきであるのにこれを分散させた結果、監視する成人スタッフが誰1人としていない状況下で児童らに川遊びをさせたことにほぼ尽きると考えるのが相当」だと断じた。

Eの上司である課長(Ⅽ)や係長(D)の罪については、「(検察官は)『本件川遊びのプログラムの開始前に被告人CはAらと協議して川遊びの中止を決定すべきであり、被告人D及び被告人Eはその中止を被告人Cに進言すべきであった』とも主張する。しかしながら、上記のとおり、被告人らには上記実施計画の策定・周知の義務があったとはいえず、これを前提とする中止を協議・進言・決定すべき義務が存しないのは当然である」とした。

罪に問われた民間団体のB、市役所のEはともに組織の長ではない。しかも事故当時、Bは忘れ物を取りに家に帰っていて、Eは女子参加者と一緒にいて、ともに現場にはいない。佐賀地裁が重視したのは責任者が誰かではなく、現場で監視者不在の状況を生んでしまったのは誰かという厳密な事実関係だった。

会見終盤、質問に答える松下教育長(10月16日)

残るのは「悔いばかり」

16日の記者会見で、松下整氏は2年9カ月余りの教育長時代を「すべてのことがもっとできたのではないかという悔い」があると振り返った。続けて、「その中でも、何度も申し上げましたけれども、このプールの事故のことにつきましては、悔いばかりです」

松下氏は1986(昭和61)年に高知大教育学部を卒業し、高知市立一宮中学の講師となった。翌年に同市立行川中学校の教諭となって、1998(平成10)年に西部中教諭から市教委入り。14年間市教委で過ごしたあと、2012(平成24)年に城北中校長に。西部中校長を務めていたとき現場から教育長に引き抜かれ、2022(令和4)年1月から勤めていた。

9月19日の市議会9月定例会で、城北中時代の松下氏のエピソードが紹介されたことがある。一般質問に立った岡崎豊議員(市民クラブ)が、松下氏の名は出さずに熱血校長時代のことを紹介、「答えられない」を連発する松下氏の真意に迫ろうとした。松下氏が城北中の校長を務め始めた時代、城北中は荒れていた。あるとき不良グループの一人が突然、学校から飛び出した。おそらく自転車に乗って脱出したと思われる。瞬時に松下氏は自転車に飛び乗って後を追った。高知市を走り回って追いかけたが、見失う。そのあとも高知市を走り回ったが、見つけることができなかった。遠くまで来てしまった松下氏は、近くにある中学校の校長室に行った。旧知の校長に頼んだのは、「水を飲ませてほしい」。汗みどろでぼろぼろの松下氏に、その校長は「どうした!」と驚いた。学校を飛び出したとき、松下氏は財布も携帯電話も持っていなかった。連絡もできないし、水分も摂れない。ぼろぼろになって現れた松下氏に水分を摂らせた校長が、岡﨑氏の知り合いだった。岡﨑氏の質問は、教師の原点を思い出して答弁してほしい、という意味だった。

会見の最終盤、松下氏は一教師に戻って答えようとしていたように見えた。プール事故について発したのは、「私は一生をかけて償わなければいけないと思っています」。おそらく本音と思えるこの言葉が松下氏の苦衷を表していた。(続く)

(C)News Kochi(ニュース高知)

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