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高知裏面史 西岡寅八郎メモワール㉓「独立愚連隊」束ねる

西岡寅八郎さん(91)が土佐電気鉄道(土電)の代表取締役会長となったのは1983(昭和58)年6月。同時に専務となった大町利夫氏は、高知県庁時代に「知事子飼い」の仕事師で知られていた。

1972年から半世紀以上働いたのち休館となった足摺海底館=足摺海底館のホームページより

海底に遊歩道を造れないか?

象徴的なエピソードがある。1967(昭和42)年、県東京事務所水産商工次長として東京にいた大町氏に溝渕増巳知事が相談を持ち掛ける。「足摺の海底に遊歩道を作れないか?」という話だった。溝渕氏が子どもたちと懇談したとき、「海底に遊歩道を」という話が出た。「これは面白い」と思った溝渕氏が幹部会で提案する。と、県の幹部は誰も本気にしない。笑うばかりで相手にされなかった。おそらく知事は少しばかり腹を立てたと思われる。そんな突拍子もないことができそうなやつ、として大町氏に照準を定めたらしい。大町氏は当時39歳。そのときにはもう県庁内で「やり手」として見られていたことになる。

溝渕知事に大町氏はこう答えた。「できると思います」。まずは自分で描いた各種イラストを知事に見てもらって知事自身が持つイメージを具体化した。リサーチを続け、大手企業に研究を依頼し…。ところが海底遊歩道なんて世界にも例はない。やるとしても莫大なお金がかかる。コストと技術両面から遊歩道はあきらめ、海中展望塔に軌道修正した。幾多のハードルをクリアし、1970(昭和45)年12月に川崎重工へ建設を発注。1972(昭和47)1月1日、「足摺海底館」としてオープンする。新聞記事によると、オープン当時は世界最大の海中展望塔だったらしい。

11カ月後の1972年11月、一帯が足摺宇和海国立公園に指定される。「足摺海底館」は観光の目玉として大活躍したが、老朽化による改修負担の増加によって2026(令和8)年5月から休館に入った。9月18日に営業終了が決定、このまま54年の歴史を閉じる。

「知事補佐監」を特集した1972年4月8日付高知新聞朝刊

46歳で上席補佐監に

大町氏が県庁に入ったのは1945(昭和20)年だった。主に商工や水産畑を歩んだらしい。東京事務所から戻ったのは1972(昭和48)年4月で、就いたポストは新設の「知事公室補佐監」。補佐監は5人いて、そのトップが上席補佐監だった。1年後、大町氏は上席補佐監となる。46歳だった。

補佐監の創設には溝渕知事本人がこだわったとされている。当時の高知新聞を見ると、きっかけは前年末に行われた知事選だった。5期目を目指す溝渕氏と野党統一候補として挑む前高知市長の氏原一郎氏。横綱同士の一騎打ちとなった。2期目3期目4期目と大差で信任されてきた溝渕氏にとって、野党統一候補といえども一蹴できる自信があった。ところが結果は2万票差という薄氷の勝利。前回知事選は20万票差で圧勝しただけに、溝渕氏はショックを受けた。加えて庁内には長期政権特有の弛緩した空気もあった。

補佐監制度がスタートした直後、1972(昭和47)年4月7日の高知新聞が補佐監について特集している。当時の雰囲気をよく表しているので一部を取り出してみる。

〈昨年十一月末の県知事選における溝渕知事の得票は二十三万五百票。二万一千票の小差であった。五期の座を死守した溝渕知事は、その喜びとは別に「何かポッカリと胸の中に穴のあいた虚脱感を味わった」という。過去の知事選挙において、いずれも圧勝で相手候補をほうむってきた溝渕知事である。初めて対戦する野党統一候補とはいえ、ハラの底には自信と自負がみなぎっていたに違いない。それが首をすくませるような小差で…。日ごろはあまり感情を表に出さぬ性格だが、動揺は言動にも出た〉

続けて記事は知事が職員に厳しい訓示をしたこと、記者会見では「知事とは孤独なもの。個人の力では限界がある」と述べたことを列記。その上でこう続ける。

〈補佐官制度の創設。このころから知事は五期県政推進体制の新機軸として公式の席上でこの構想を披瀝し始めた。朽ち果てた屋台骨に支柱を入れるためである。確かに行政の多様化、複雑化は激動の世相とともに進んでいる。知事一人の頭の中で、手腕で片づけられるものではない。その一方で、県庁の行政組織は旧態依然のタテ割りのまま硬直化している。四期にわたる長期安定県政は役人にとってはまさしく安住の地でもあった〉

〈役人の世界は複雑である。長期県政は自称、他称を含め多くの茶坊主的側近も生んでいた。補佐官制度の創設にはおおむねこれらの人種は批判的であった。役人ばかりでなく県議会最大会派・知事与党自民の古手議員の中にも批判組はかなりいた。表向きは現機構の上に屋上、屋を重ねる、といった論拠だったが、その裏には知事との個人的つながりを切断される懸念がひそんでいることは言葉の端々にも明確にうかがえた〉

〈曲折を経て、ともかく補佐官制度は知事のほぼ構想通り日の目を見た。名称の上で“官”が“監”に変わった程度である〉

要するに県庁職員にとって居心地のいい県政が知事にとって動かしやすい県政ではない、ということだ。それゆえ県庁幹部や長老県議の反対を押し切って知事直轄の補佐官を創設した。問題はそのメンバーだが、同じ記事でこう書いている。

〈従来の役人の型からはみ出した、いわゆる一匹オオカミが多いことも特徴である。悪くいえば独立愚連隊、よくいえば腕ききの仕事師たちだ〉

仕事内容は「知事特命事項」。知事から特命を受け、自分なりのやり方で結果を出す。もちろん二重行政の危険はあるが、そんなことは承知の上。既存の縦割り組織が頼りにならないからこの制度を創設したのだ。当然、既存組織とケンカできるくらいの「独立愚連隊」でないと務まらない。大町氏はそのトップとして君臨した。

高知県庁=2026年9月

県に警戒される記者

大町氏には表向きの知事特命事項のほかに裏の特命事項があった。高知新聞の動静を探ることだ。正確には高知新聞という組織ではなく、特定の記者の動きを探ることが求められた。派手ではないが、知る人ぞ知る伝説的政治記者、小笠原和彦氏だ。愛称「ガサヤン」。大豊町出身で、土佐高で西岡さんの1年先輩に当たる。2009(平成21)年に74歳で亡くなったとき、後輩記者だった永橋正至氏は高知新聞のコラムで〈ダンディーで苦み走った先輩記者〉と小笠原氏を表現した。

西岡さんが明かす。「補佐監制度を作って大町を上げたのはガサヤン対策ですわ。溝渕さんの批判をしよって、溝渕さんはガサヤンを怖がっちょった。大町は飲ましにいきます(酒場に連れ出す)からねえ」

知事が怖がる理由は小笠原氏の取材スタイルだ。平成の初期まで、県幹部の間では幾つかのガサヤン伝説が口伝えされていた。その一つは「眼の光」。新聞記者の用語に「食い込む」という表現がある。取材対象、特に権力を持つ人間の懐深くに入ってネタを取ることを指す。小笠原氏は溝渕知事や県幹部の懐深くに食い込んでいた。実は懐深く食い込むだけならさして難しくはない。一般論として、書かない記者であればあるほど懐深くに入り込める。嫌なこと、自分に都合の悪いことを書いたりしない記者なら権力者に信頼してもらえるということだ。権力者から聞いた話を上司に耳打ちしていれば(書くのは権力者の都合のいい時期に、都合のいい形で書く)、新聞社内でもけっこう重宝される。かくて権力者の覚えめでたい記者が出世したりするのだが、書くべきことを書くべき時期に書かないのは読者への背信行為。このような記者は新聞業界で「ポチ」と呼ばれることがある。ネタを追う「猟犬」でも権力の「番犬」でもなく、権力に飼いならされた「ポチ」。ポチの比重が高まった新聞社はとめどなく権力者に軽んじられていく。

小笠原氏が怖がられていたのは、なにより「書く」からだった。もちろん食い込み方は他の追随を許さず、知事室にも部長室にもフリーで出入りする。下手に隠すと怖いので、県側はいろんなことを話す。調子に乗って話していると、不意に小笠原氏の目が光る。「キラッと光るがよ。それがこっちにも分かる。慌てて『書かんとってくれ』ゆうてもいかん。書かれる」。かつて県OBの一人がそんなふうに話していた。「宿毛湾に石油基地を持ってくる話も書かれた。県にとっては痛手やった」とも。枝葉末節にはこだわらないが、書くべきこと、県民が知るべきことはスパッと書く。だからといって人間関係が壊れるわけではない。次の日も同じように知事室に来て話をする。懐深く入ったまま淡々と書く。県はなすすべもなく書かれる、という図式だったらしい。

上に挙げた補佐監制度の記事にも小笠原氏が関わっていたことは間違いない。大町氏は小笠原氏に張り付き、一緒に酒を飲み、一緒に遊んだ。小笠原氏を懐柔するのではなく、その動静を探るために。権力者に新聞記者が張り付くのはよくあるが、新聞記者に県幹部が張り付くのは珍しい。県のカネで飲ましてもらっている的な気持ちは小笠原氏にはさらさらなかったと思われる。後年、高知新聞で社用車の運転手をしていた男性がこう明かしていた。「小笠原さんは大豊の持ち山を売っては飲み代のツケを払いよった。山を売った札束を持たされて、小笠原さんのあとを一軒一軒回ったことがあるも。『これ持って付いてこい』ゆうて言われて」。小笠原氏のカネ払いのよさは高知新聞で伝説となっていた。

連載企画「ながい坂」で四国初の新聞協会賞を受賞、1978年10月の第31回新聞大会で日本新聞協会長の広岡知男・朝日新聞会長から表彰される小笠原和彦氏(右)=『高知新聞100年史』より

「16年に渡る温床」の毒 

溝渕氏が小笠原氏を怖がったのは、伏せておきたい「特ダネ」をすっば抜かれるからにほかならない。加えてもう一つ、コラムの影響力も考えていたのかもしれない。当時、高知新聞の夕刊1面には「話題」という署名入りコラムがあった。小笠原氏はこの欄で歯に衣着せぬ筆を振るっていた。補佐監制度が始まった直後、1972(昭和47)年4月11日夕刊の「話題」にはこう書いていた。真ん中部分だけを引用する。

〈これまでの溝渕長期県政は、多少の波風が立ったとはいえ、おおむね平穏無事だった。十六年間にわたる温床は年功序列を完全なものにし、多くのいかにも役人らしい役人を育ててきた。遅れず、休まず、仕事せずの“役人憲法”を忠実に守るだけの典型的役人をである〉〈四千五百人にのぼる氏名、職名を記載した高知県職員録。ちょうど今回の定期異動発令前、ページごとに赤線を引いていた役人がいた。同期のものとの出世を比較しているのだ、という。中には給料の号棒まで調査、明記したものまであった。役人の生きがい、といえばそれまでだが、バカくさい、というよりなにか、吐き気をもよおす役人体質をかい間見せられた感じでもあった〉〈骨までくさり果てた役人は別として補佐監制度の創設に根性ある多くの役人が目をむいたこともまた事実である。若造の補佐監どもに、よいところばかり取られ、カッコよくやられてたまるか、という反発からである。これまで敬遠されてきた難題の知事特命事項の売れ口がぐんとよくなったというから、役人の世界というのは面白いものだ、と思う〉

「骨までくさり果てた役人」とまで書かれてしまっては、それを率いる溝渕氏の立場はない。朽ち果てた屋台骨を支えるために抜擢されたのが大町氏だった。

大町氏が土電の代表取締役副社長に就いたのは1984(昭和59)年。副知事の和食延夫氏が「乱世の大町」と評した通り、出足は精力的だった。(つづく)

(C)News Kochi(ニュース高知)

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