福島県飯舘村は「日本で最も美しい村」連合に加盟している。阿武隈高地のなだらかな丘陵にあるその風景は確かに美しい。2011年3月、そこに放射能が降ってきた。中でも村南端に位置する長泥地区は高濃度に汚染された。2017年、長泥の行政区長だった鴫原良友さん(74)は地区外の低汚染土を受け入れることを決める。それが長泥再生の唯一の道だと思ったからだ。しかし…。鴫原さんは今、「ちょっと違う」と感じている。(依光隆明)
「やる気ないのかって感じなんだよ」
2024年11月19日、長泥地区を貫くメインロードの横で農地の基盤整備らしき作業が行われていた。粘土状に見える黒ボク土の上に重機が乗り、水路を掘っている。鴫原さんが話す。「おらに言わすとな、国は『長泥の住民が頑張らんといかん、やる気ないんじゃないですか』って感じなんだよ」。鴫原さんによると、国も村も「コメを作れ」と言ってくる。国費を投じて基盤整備を行っているのだから、国や村にしたら農業をしてもらわないと困るのかもしれない。野菜に比べるとコメ作りは簡便であり、白米にすれば放射能も出ない。だからコメを薦めると思われるのだが、「コメで生活できるのか」と鴫原さんは思う。「1反1万8000円の中山間補助金が出るけど、それじゃあ食えない。生活できねえも。生活できないところに帰ってくる人なんていないよ」。もちろん放射能のことも考える。「精米したら確かに放射能は出ない。だども、汚染土使ってコメやる人なんているか?放射能のすり鉢の中で作るわけだから」
記録誌の中で長泥を残す
「放射能のすり鉢」とは里山の除染に手を付けない国への皮肉である。里山の土や樹木には放射性物質(ほとんどが放射性セシウム)がべったりと張り付いている。雨や風によってそれらの葉や枝、さらには土が平地に振り落ちてくる。これでは放射能のすり鉢の中で農業をやるようなものだ、と鴫原さんは思う。
「それにな、もともと長泥のコメなんてうまくなかったからな。会津のコメぐれえうまいコメ作らないとコメなんてつくる人いないよ。放射能の中で作ったコメなんて、おらだって買いたいと思わないも」。鴫原さんは長泥でなりわいを立てたいと考えている。それがないと「戻ってもいいよ」と言われても帰る人なんていない。
2011年3月15日、福島第一原発が吐き出した大量の放射能(正確には放射性物質)は、雲に混じってゆっくりと北西方向に進んだ。雲の先端が33キロ先の長泥辺りまで届いたころ、降り始めた雪とともに放射性物質が地上に落ちる。地面に張り付いた放射性物質は放射線を出し続けた。「30㌔圏の外は安全。住み続けていい」と言っていた国が方針を一転するのは1カ月余りあとだ。強制的に避難させられたのち、2012年7月に長泥はバリケード封鎖された。以来、帰還困難区域と呼ばれることになる。2016年、鴫原さんが旗を振って長泥の人たちは記録誌『もどれない故郷ながどろ』を出版した。せめて記録誌の中で愛する長泥を残したい、そんな思いだった。普通の単行本より一回り大きいサイズの分厚い本で、人々の脳裏に残る長泥の思い出を聞き書きで綴っている。翌2017年、戻れないと覚悟した長泥の住民に国と村は「特定復興再生拠点区域復興再生計画」というプランを提示した。行政区長だった鴫原さんは、このプランをこんなふうに受け取った。「地区外の低汚染土を受け入れれば地区に戻れる可能性が出るんだな」と。
一石二鳥?の低汚染土運び込み
「復興再生計画」は、整備の流れをこう書く。
①特定復興再生拠点区域内の除染・家屋解体を進める。②区域内の除染・家屋解体後、村営住宅、短期滞在・交流施設の建設を進めるとともに、多目的広場の整備を進める。③区域内の文化資産(白鳥神社、山津見神社、十文字の神様、道祖神、長泥の桜並木、石清水、記念碑、大石等)の除染・整備を実施する。➃農の再生を図るのに必要な農用地等の環境整備を進める。また、造成が可能な農用地等については、環境再生事業において、再生資材化施設及びストックヤードを整備し、実証事業により安全性を確認した上で、再生資材で盛土した上で覆土することで、線量低減効果をもたらし、長泥地区の農用地等の利用促進を図る。
➃にある「再生資材」というのが地区外から運ぶ低汚染土のことだ。鴫原さんは「汚染土」と呼ぶ。「環境省はわけわかんない呼び方してるけど(「再生資材」という呼称のこと)、汚染土は汚染土だべ。汚染土としか呼べないべ」と鴫原さん。高濃度に汚染された長泥の土壌に低濃度の汚染土を盛り土し、「線量低減効果」を図る。それが計画の要点だと言っていい。国にすれば、最大の利点は低汚染土の処理ができることだ。福島市を始め、福島県のさまざまな場所で除染(土壌の引き剥がし)が行われた。長泥を除く飯舘村全域でも行われた。剥がした土は放射性廃棄物だから、簡単には処理できない。たまり続ける低汚染土を帰還困難区域に運び込み、それによって帰還困難区域の線量を低減させれば一石二鳥なのである。低線量土を受け入れる代わりに住宅周りの除染をしてあげるし、村営住宅も作ってあげる。低汚染土の上に山土を盛って農業だってできる。つまり帰還困難地域の人たちも故郷に戻れますよ、帰還できるようにしてあげますよ、というプロジェクトだった。
④に関しては「環境再生事業」と名付けた環境省の実証実験事業として行われることになった。飯舘村長と環境省の副大臣、鴫原さんがサインをしたのは2017年の11月。7市町村に散らばった帰還困難区域の中で、この事業を導入するのは長泥が唯一だった。
国の姿勢が定まっていない?
事業に伴って長泥に他地区の低汚染土が勢いよく運び込まれた。農地は低汚染土でかさ上げされ、その上に山の土砂や黒ボク土が載せられた。静かな農村だった長泥はあれよあれよと変貌した。2020年、鴫原さんは5期10年務めた長泥の行政区長を勇退したが、サインをした責任は今も感じている。2018年の事業開始からすでに丸6年。変貌著しい長泥を見やりながら、鴫原さんは「これでよかったのか?」と自問自答を続けている。
なにより疑問を感じるのは国や村のスタンスだ。被害者である鴫原さんが「やる気ないのか」と責められているように感じるほどの勢いで「コメを作れ」と言う割に、腰が定まらないように見える。例えば基盤整備後の実験農地で試験的に作ったコメである。「白米にしたら放射能出ないんだよ」と鴫原さんは説明する。「国も安全だって言うんだよ」と。精米したら放射能が出ない、安全だから米を作れという論理だと受け取っているのだが、自分たち(環境省)が試験圃場で作ったコメの扱いはどうしているのか。鴫原さんが言う。「『移動させるのもだめ』だって。おっかしいよ。安全なら売ればいいんだよ」
「国が分かんなくなってきた」
リスクを負わない、腹が座らないくせに長泥の住民には「コメを作れ」と急かす。おかしいではないか、と鴫原さんは思う。長泥が生き残る道はこれしかないと思って低汚染土の受け入れを決断したのだが、押しつぶされそうな決断の重みを国は分かっているのかいないのか。「国ってのは俺にも分かんなくなってきた。いったいどう考えてるのか分かんねえ。環境省が言うのもな、『来年、どんな花を作りましょうか』とかそんなことばっかりなんだよ。もっと先の、5年先とか10年先のことを考えねえのかなあ」
環境省は現在、長泥にビニールハウスの実験棟を建てて花卉を栽培している。汚染土の上に山の土を載せ、肥料と水を与えて花を作る。きれいな花を咲かせているが、それがどう住民のなりわいに結びつくかは分からない。資金を投じて長泥で施設園芸をする人がどれくらいいるだろう。「長泥は生活が楽なところじゃなかったんだよ。先祖の財産守るだけで大変だったんだから。兼業の共稼ぎでみんななんとかやってたんだから。そんなところに来て『コメ作りましょう』「農業やりましょう」って言ったって戻る人なんていねえの。若い子はもともと戻る気ないんだから。それが分かんねえのかなあ」
変貌ぶり、まるで別世界
74世帯あった長泥の家々は、ほとんどが解体・撤去された。地区の真ん中には真新しいコミュニティセンターが建てられ、一時的に地区に戻った住民がそこで宿泊できるようにもなった。低汚染土による農地の基盤整備も進み、ダンプカーが行き交っている。昔の長泥を想像することができないほど地区の変貌は続いている。「最終的に国は500億円くらいかけるんじゃないかなあ」と鴫原さんがぽつり。それだけの投資をし、すさまじく地区を変貌させ、それが住民のためになるのだろうか。そもそも何人の住民が地区に戻るのだろう。鴫原さんはなんとも言えないもどかしさに包まれている。(続く)