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高知裏面史 西岡寅八郎メモワール➄「俺が立会人になる」

20億円を超える累積赤字を背負いながらメインバンクに取引停止を通告され、退職給与引当金も10億円不足――。1978(昭和53)年に四国銀行へ集まった面々は土佐電気鉄道(土電)の経営危機を説明した。その上で西岡寅八郎さんに「土電をやってくれ」と頼む。西岡さんは断り続けた。(依光隆明)

はりまや橋の電停に止まる「とさでん交通」の電車=2026年2月、高知市

「みんな親父の友だちでした」

1978年当時、西岡さんと土電とのかかわりは全くと言っていいほどなかった。

「僕は土電らあ行ったことなかったですき。むしろ高知県交通(県交)とかかわりがあったんです。(社長の)岸本宇根さんとはマージャン仲間でしたから」

電車とバスを走らせる土電とバス専業の県交はライバル関係でもあった。県交側と人間関係を持っていた西岡さんに、なぜ土電を任そうとしたのか。理由はただ一つ、西岡寅八郎さんの亡父、寅太郎氏(1908~1971)の存在感だった。

西岡さんが四国銀行に呼ばれたとき、集まっていたのは高知県の中内力知事、和食延夫教育長、四国銀行の吉村真一頭取、久保忠武副頭取、浜田耕一専務、滝本浩専務、高知新聞の福田義郎社長、労働界から国沢秀雄県総評議長、香西誠一土電労組委員長。労組界の二人を除く7人は「みんな親父の友だちでした」と西岡さんが説明する。西岡さんの父、寅太郎氏は会社経営の傍ら高知県議会議員を務めていた。酒は一滴も飲まない。にもかかわらず、昼夜を問わず交友関係は広かった。どこかで誰かが困ったら積極的に汗をかく、そんな人物だったらしい。だから頼りにされるし相談もされる。結果を出すからまた頼られる。高知商業高校出身で、高知商が甲子園に出るとなると、高知市の真ん中にあった四国最大級の大型キャバレー「ツバキ」で居合わせた客からカンパを募るようなところもあった。自民党の県議だったが、敵対する共産党県議の山原健二郎氏を「一緒に行こう」と自分の車に誘い、車中でにぎやかに談笑するような幅の広さも持っていた。山原氏は県議2期を経て衆議院議員となり、10期連続で当選する。

「知事も頭取も福田さんもみんな親父の友達。僕は親父の使い走りをしよったき、みんな知り合いやった」。寅太郎氏は西岡さんに県議の椅子を継いでもらった直後に亡くなっていた。使い走りをしていたおかげかどうか、寅太郎氏の人脈の多くは寅八郎さんが受け継いだ格好になったらしい。寅太郎氏に成り代わって寅八郎さんを引き立てようと考えていた人も少なくなかった。中でも豪放磊落で知られた福田義郎氏は西岡さんに目をかけていた。福田氏にたびたび言われたのは「親のすねをかじってきたくせに」というせりふ。福田氏は高知師範から旧制高知高校に進み、在学中に結婚して東大法学部に進んだ。東大では天皇機関説を集会で演説して逮捕され、同盟通信に入社して南方に赴任したときは何度か死にかけている。しかも高知師範卒業後には安芸市と室戸市で小学校教諭を経験、東大卒業後は二松学舎の教授を務めて山原健二郎氏を教えていたこともある。様々な経験を重ねた目から見ると、西岡さんはまだまだひよっこに見えたのかもしれない。「すねかじり」発言はこの場でも出た。「福田さんから『親のすねをかじってきたくせに、ええ加減にせえや。こればあ頼みゆやないか』と言われました」

寅太郎氏の名を出されながら、西岡さんは全員から「引き受けろ」と集中砲火を浴びた。西岡さんが「なんで自分なんだ」と聞いたときにも寅太郎氏の名が出た。要するに、寅太郎氏の息子だから引き受けろ、という理屈だ。「おまんの親父の名を出したら株主が納得する」とも言われた。どういう経緯か、寅太郎氏は1951(昭和26)年から土電の監査役、1954(昭和29)年からは取締役となり、亡くなる1971(昭和46)年まで続けていた。寅太郎氏のあとを継いで土電の経営にもかかわれ、というのは理屈としてはぎりぎり通るかもしれない。西岡さんは追いつめられる。「あのメンバーにガンガン言われたら逃げれんぜ」と西岡さん。決め手は福田氏の言葉だった。「人のためにやっちゃれや、親父みたいに。俺が立会人になっちゃうき」。これも福田さんの言葉だったと思うが、こんなせりふも出た。「ここにおる人間の言葉は有価証券ぞ。責任は持つからやれ。迷惑かけやあせんわや(決して迷惑はかけない)」。ここにおる人間の言葉というのは〈この9人が西岡さんにお願いして土電をやってもらう〉ことと、〈9人が土電における西岡さんの後ろ盾になる〉こと、加えて〈西岡さんに迷惑はかけない〉ということだったらしい。結局、西岡さんは折れる。1979(昭和54)年に土電の非常勤取締役となり、1983(昭和58)年に代表取締役会長に就任するという筋書きを承諾する。

開業翌年、明治38年の梅ノ辻電停附近=『土佐電鉄八十八年史』より

高知県唯一の産業資産

説得される中で西岡さんの印象に残っている言葉がある。「銀行管理」と「高知県唯一の産業資産」の二つである。「最初から『土電は銀行管理だ』と説明されました」と西岡さん。銀行管理とは、経営権を銀行が握っている状態。つまり土電は四国銀行の監督下にあったと言っていい。だから土電経営陣の頭越しに西岡さんの取締役就任を決めることもできた。四国銀行は土電の経営陣をよほど信用できなかったのだろう、大事な話をするときには「土電の役員はシャットアウトでした」と西岡さんは言う。

「銀行管理」以上に心に残ったのは、「産業資産」という言葉だった。「皆が強調したのは、『高知県唯一の産業資産である土佐電気鉄道を残す。それをやってくれ』ということです。『頼むぞ』と。これはその後もくどいばあ言われて、今も僕の頭の中に残っています。高知県唯一の産業資産である土佐電気鉄道を残さないかん、と。残せませんでしたが…」

土佐電気鉄道は日露戦争(1904~1905)前夜の1903(明治36)年7月に創立された。発起人は11人で、株主が36人。同年11月から本町線と潮江線の敷設に入り、1904(明治37)年5月2日に営業を開始している。本町線は堀詰から現在のグランド通までの延長1.2キロ、潮江線は梅ノ辻から桟橋通五丁目までの1.8キロ。四国初、全国でも10番目の路面(市街)電車だった。

土佐電気鉄道を作ったのは主に高知市の実業家たちだった。当時、高知県の政界では中央派と郡部派の主導権争いが激しさを増していた。激突の舞台は県最大の日刊紙、土陽新聞だった。1903(明治36)年秋、郡部派は社内から中央派を追放する。追放された中央派は高知市の実業家たちの支援を得て翌1904年9月に高知新聞を発刊した。土電創立の1年2カ月後に創立されたことになる。株主もほぼ同じだったことから、土電と高知新聞は「兄弟会社」のような関係だったらしい。たとえば土電創立の影の主役だった二代目川崎幾三郎や土電初代社長の横山慶爾は、1901(明治34)年に立ち上げた活版印刷会社「高知印刷」を高知新聞に提供している。のちに土電の第四代社長となる宇田友四郎は大阪で新聞用紙を斡旋し、その購入費用800円を横山慶爾らと負担した。公務員の初任給ベースで計算すると、当時の800円は現在の2000万円程度になる。

東京に路面電車が走ったのは土電が営業を開始した前年で、横浜は高知の1年後。高知のような遠隔の小都市がいち早く路面電車を走らせたのは異例と言っていい。しかもそれを現代まで存続させている。1978(昭和53)年から西岡さんが頭に刻み込んだ「高知県唯一の産業資産である土佐電気鉄道を残す」は、〈電車を残す〉ということと〈土佐電気鉄道株式会社を残す〉という二つの意味があった。西岡さんは「福田さんも浜田耕一さんも言いよったのは、『土佐電気鉄道という名を残す』でした」と明かす。路面電車は現在も健在で、日本最古の路面電車として全国のファンから熱視線が送られている。傍ら土佐電気鉄道という会社は消え、現在は県と市町村出資の「とさでん交通」が電車を走らせている。折に触れ、西岡さんはこうつぶやく。「なんで寄ってたかって土電を潰さないかんかったろう。単年度黒字を出しよったし、潰す必要はなかったに」

仁淀川のほとりに発展した旧伊野町中心部(現いの町)=Google Earthより

商業基地だった伊野

西岡さんの出身は吾川郡伊野町(現いの町)だが、実は土電の誕生には伊野という街が深くかかわっている。明治に入り、伊野は製紙原料ならびに紙製品の集散地として急速に発展していた。街の背後にある仁淀川流域で豊富に製紙原料が栽培され、それを使った製紙業が次々と勃興したのだ。原料や製品が伊野に集まり、伊野の紙商人が大阪や東京、さらには外国にまで出張って販路を広げる。販路ができると高知県の製紙業はさらに盛んとなった。山深い村々から高知市街まで、それこそ県内各地で製紙業が立ち上がり、それがまた伊野の実業家たちの財力を強化した。明治の後年は高知市の実業家よりも伊野の実業家の方に財力があった、という説もある。1991(平成3)年に出た『土佐電鉄八十八年史』にはこんなくだりが載っている。

〈明治31,2年頃、伊野町有力紙商たちはその財力にものをいわせ、中沢楠弥太(当時土佐農工銀行頭取)と組んで高知、土佐両銀行の向こうを張り、新銀行設立の動きを示したことがあった。『銀行生活五十年』(元吉秀太郎著)も、「この時は高知銀行側が折れて紙商側と手を握り、新銀行設立のかわりに紙商団の出資を受け入れ33年中沢を頭取に迎えた。高知銀行―四国銀行が製紙業界と特殊な縁故を持つようになったのは、こうしたいきさつによるもので、当時県下の経済界を牛耳っていた伊野系紙業家との提携が高知銀行を太らせる一つの力となった」と述べている〉

高知銀行というのは現在の四国銀行だ。正確には1978(明治11)年に第三十七国立銀行として誕生し、1897(明治30)年に株式会社高知銀行に組織を変更。1923(大正12)年に土佐銀行を合併して四国銀行と名前を変えている。1950(昭和25)年発行の『四国銀行五十年史』は、〈是等紙商人に談ずるに新設銀行は之を中止し替ゆるに高知銀行株を引受けられん事を以てし〉〈合計弐拾万円に相当する株式を紙商人に売却し、其代償を以て損失金の補充を了せしかば其損失は全く補填し傍ら又多数紙商人と取引を開始するに至り行務は茲(ここ)に大に拡張するに至れり、是実に明治三十二年末のことなりき〉という中沢楠弥太自身の文章を載せている。ちなみに『銀行生活五十年』を著した元吉秀太郎氏は四国銀行の元行員で、昭和30年代に同行の専務取締役を務めた。

伊野町内を走る電車。敷設から間もない時期だと思われる=『土佐電鉄75年の歩み』より

土電と四銀と高新と

快調に業況を伸ばしていた伊野の実業家たちにも悩みの種があった。陸運だ。紙製品も原料も、伊野―高知間を陸送して高知港から船で移出していた。1887(明治20)年に荷車が通る道ができたが、朝倉村(現高知市)との境にある咥内(こうない)坂は難所のまま。伊野-高知間に電車を通すというのは土電創立当初からの構想だったと思われる。たとえば発起人の中にも伊野の実業家が複数入っている。

高知から延びてきた伊野線が咥内に達したのは1907(明治40)年だった。翌1908年には咥内―伊野間が開通し、伊野線が全通した。すでに桟橋線と本町線は接続しており、伊野から高知港桟橋まで鉄路でつながったことになる。『土佐電鉄八十八年史』はこう書いている。

〈伊野線開通により伊野町方面からの和紙その他生産物は電動貨車で桟橋へ直送、船で阪神方面へ積み出されることになった。また京阪神などから桟橋に着いた石炭、苛性ソーダなどの製紙関係薬品、パルプ、肥料その他移入品は沿線の村々や伊野方面に移送されるという多年の夢が実現することになった。また電車の開通で本町筋五丁目以西の閑静な田園地帯は日を追って人家が増え、製糸、製材、製紙などの工場が興り、高知市西部は工場地帯として発展を遂げるようになった〉

伊野と高知を土電が結ぶことにより、高知の経済が拡大したことがよく分かる。経済規模が膨らめば銀行の規模も拡大する。伊野という当時の経済都市を介した土電と四国銀行(四銀)のつながりと、土電の弟分として発足した高知新聞(高新)――。土電、四銀、高新は明治期から浅からぬ関係にあったことになる。ちなみに土電を創立した発起人の一人、上田哲次郎は紙販売業と酒造業を生業としていたが、酒造部門はのちに西岡さんの家が譲り受けている。実は西岡さんの家も紙を生業としていた。紙商同士の人間関係で上田家から酒造部門を譲渡されたと推測できる。つまり西岡家も伊野の実業家の系譜につながっていた。(つづく)

(C)News Kochi(ニュース高知)

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