中山間

60年前にタイムスリップ。高知県安田町、日本一昭和な映画館

高知県のお山の中に、おそらく全国で最も昭和の香りのする映画館がある。35ミリフィルム映写機が1台と85の座席。映画が斜陽になったあと、何度も館をたたもうかと悩みながら続けてきた。古いポスターに囲まれた濃密な空間に映写機の音が小さく響く。昭和を生きた常連さんが足を運び、しばし青春時代の思い出に浸る。(依光隆明)

お山の中の映画館、「大心劇場」全景。右の建物が映画館

映画が好きだから続けてきた

高度成長が始まろうとする1954(昭和29)年、旧中山村(昭和18年に合併して安田町)の中心部に「中山映劇」として誕生し、1982(昭和57)に安田川を挟んだ安田町内京坊へ建物ごと移ってきた。移築後に付けた名前は「大心劇場」。70年前と同じく今も映写機1台で35ミリフィルムをかけている。だからデジタル撮影された最近の映画は上映できない。コストの問題もあって、かけるのは古い映画が多い。

経営するのは小松秀吉さん(72)。内京坊へ移ったときに父親の故・博行さんから引き継いだ。当時すでに映画は斜陽を迎え、郡部に点在した館の多くは雪崩を打って廃館中だった。そんな状態で続けていいのだろうか。迷いはしたが、博行さんも秀吉さんも映画が好きだった。移築に当たっては、大工さんと一緒に秀吉さんも解体や組み立てに携わった。おかげで今でも大抵のことは自分でできる。

小松秀吉さん。父の博行さんから引き継いで、もう40年を超えた

看板も手描きで作る。これも70年前から同じ

国道沿いにレトロな大看板

「大心劇場」の人気の一つは小松さんが描く看板だ。小松さんは中学生のときに看板描きを覚えた。以来、映画をかけるたびに看板を作る。丸一日かけて描く大看板を一つと、中看板を幾つか。大看板は友人のトラックに乗せてもらって安田町と田野町の境まで運ぶ。「美丈夫」ブランドで全国的に有名な田野町の酒造メーカー「濱川商店」の看板下が指定席だ。同社の好意で場所を提供してもらっている。

場所は国道55号のすぐ横。カラフルな手描き看板はよく目立つ。

昔は手描き看板が主流だったそうだが、今はもう絶滅危惧種。「看板用の筆の生産がなくなってしもうたがよ。困っちゅう」と秀吉さん。

国道55号の横に大きな看板。「美丈夫」の下が指定席

地域ぐるみでお山の映画館を守った

1985(昭和60)年にはちょっとしたピンチがあった。興行組合に入っていなかったことが原因となり、フィルムの供給を止められたのだ。このときは地元に映画同好会(中芸シネマクラブ)ができて、自主上映の形で映画会社からフィルムを取り寄せた。当時、高知県内では故・田辺浩三氏が主宰する窪川シネマクラブが圧巻の業績を上げていた。田辺氏の協力で安田町を含む中芸地域に誕生したのが中芸シネマクラブである。結成の動機は「みんなで大心劇場を助けよう」だった。

中芸シネマクラブ主催で上映したのは「ひまわり」や「竜馬暗殺」「ダントン」「家族」「釈迦」などなど、会員から希望があった名画の数々。夜の上映では真っ暗な田舎道をてくてく歩いてたくさんの人が「大心劇場」に足を運んだ。シネマクラブの会員は50人を超え、地域ぐるみで山の映画館を守った。

1980年代末の苦境の時代、今井正監督や森崎東監督、脚本家の神波史男氏ら多くの映画人がはるばる「大心劇場」を訪れた。今井監督は田舎の山道を進んだ先にぽつんと映画館があるという得難いロケーションに感動、二度にわたって来てくれた。

映写室の小窓から見たスクリーン

「年寄りが熱中症で倒れたら大ごとやき」

現在、「大心劇場」は月1度・1週間の上映を続けている。ただし夏場はしない。エアコンがないからだ。秀吉さんが説明する。「暑うてできん。見ゆうお年寄りが熱中症で倒れたら大ごとやき」。冬は石油ファンヒーターを入れれば大丈夫。

ときどきは月2回やることもあって、ことしの1月は吉永小百合主演の「風と樹と空と」と倍賞千恵子主演の「下町の太陽」をかけた。「大心劇場」の映写機は35ミリフィルム用の1台だが、実はそれを使うことは年に1度ほどしかない。古い映画でも、映画会社がブルーレイディスクを送ってくるケースが多いからだ。映画会社にしてもそちらの方が手間がかからない。

小松さんが観客にあいさつ。「そこはよろしくね」

映写機1台、35ミリフィルムを「流し込み」

「下町の太陽」は久々の35ミリフィルムだった。

上映前、秀吉さんが客席に下りた。「きょうの『下町の太陽』は1963年に作られた映画です。山田洋次監督の作品です。『寅さん』につながるものもあると思います」。観客は約20人。一人ひとりの顔を見ながら作品について説明する。「当時は高度経済成長の時代です。風景をよく見てください。細かいところまで当時をよく映しているので、よく見てくださいね」。そして大事な注釈。「それからこの映画はフィルムで上映します。フィルムだから切れたりすることもあるかもしれませんが、そこはよろしくお願いします」

1時間半の35ミリフィルム映画だと、ロールは6本ある。映写機1台で途切れなく上映するには「流し込み」という技術がいる。流れ込んでいくフィルムのスピードを計算しながら次のロールの先端を前のロールの後端に接着させるのだ。これがなかなか難しい。失敗したら映画がいったんストップする。

映写室。小松さんが小窓からスクリーンをのぞく。映写機一つのフィルム上映は真剣勝負だ

廃業した館の機材、客席を譲り受け

映写機は高知市にあった名館「テアトル土電」が廃業したときにもらってきた。客席もそうだ。吹けば飛ぶような「大心劇場」は土俵際で踏みとどまったが、高知市にあった「高知名画座」や「土電ホール」「高知東宝劇場」「高知東映」「高知松竹ピカデリー」など、名だたる名館が消えた。郡部にあった映画館もどんどん消えていった。仲がよかった映画館が廃館すると、秀吉さんは客席や映写機を譲り受けた。香美市の映画館から譲り受けたこともあったし、高知市にあったストリップ劇場「高南劇場」のものを譲ってもらったこともある。映写機にも客席にも昭和の歴史が詰まっている。

館内の壁に張った古い映画ポスター。倉庫にはこの何倍もの数のポスターがある

「風邪ひかんうちに帰りよ」

再び「下町の太陽」。客席にいるのは70歳代から80歳代が多い。それらの世代にとって1963(昭和38)年といえば、おそらく青春真っ盛りだろう。ときどき携帯の着信音が鳴ってしまうのはご愛嬌。そんなことは気にもせずみんながスクリーンに没入している。高度成長の息吹、交通戦争、受験戦争、出世競争、働く女性…。モノクロのフィルムに山田洋次監督はいろんなメッセージを詰め込んでいた。60年前にタイムスリップしたようにスクリーンを見つめる目。テレビとは違う、シネコンとも違う、かつて日本の津々浦々にあった映画という文化がここにある。

映画が終わる。外に出る。秀吉さんが待っていて、一人ひとりに声を掛けていた。「よう来てくれたねえ、ありがとう」「久しぶりに映画を見た。なかなかよかった」。「外は寒いねえ」と空を見上げる客には「風邪ひかんうちに帰りよ」とひとこと。常連客には「おでん炊いたき、食べていきや」。

大心劇場。国道から県道に入り、さらに田舎道に入って進んだ先にある

ギターも持つし、アユもツガニも捕る

秀吉さんは多彩な人だ。「豆電球」という名でシンガー・ソングライターをしていて、県内各地のイベントに呼ばれている。「大心劇場」のお隣では「豆でんきゅう」という喫茶もやっている。つまり喫茶店のマスターでもある。アユの友掛けも上手だし、ツガニ捕りも玄人並み。昔は「豆でんきゅう」の隣で「大心会館」という宴会場までやっていた。

高校を出て大阪の大学に進み、帰郷して映画館と喫茶の経営。昨年はとうとう俳優デビューまで果たしてしまった。地産地消映画と銘打った「追い風ヨーソロ」。安田町にほれ込んだ横浜市の桜井珠樹さんがプロデューサーと脚本を担当し、昨年6月に「大心劇場」で全国初上映を行った。もともと秀吉さんが出演する予定ではなかったが、ロケハンに来た桜井さんが秀吉さんのキャラクターにほれこんで出演を要請。即座にOKし、地のままで達者な役者ぶりを見せた。初上映のあとはほかの俳優さんと一緒に舞台あいさつ。それが終わるとギターを持って、「大心劇場」をコンサート会場に変えた。

人と人がつながって、山の中の映画館を支えている。

「追い風ヨーソロ」の舞台あいさつ後、館内はコンサート会場に早変わり

田園が広がる安田町の風景

(C)News Kochi(ニュース高知)

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